2013年2月28日木曜日

第569回 バンコク・スリウォン ロータリークラブ例会





569回 バンコク・スリウォン ロータリークラブ例会
2013226

ゲスト
東京北RC 和田PP
海南RC岡本会長
ゲストスピーカー杉原千弘様、杉原様奥様
小宮様(山田Rtn御友人)
鈴木様

会長報告 塩谷会長
3/13/3】ブリラム自転車贈呈式、360台の自転車を贈呈予定。3年越しの贈呈式です。
・鈴鹿City RCの救急車贈呈計画はコスト面、諸事情により計画中止決定。その代りに図書の支援を実行。20万円の送金をして頂いた。贈呈候補先はアムナートチャルン県。4月末までに決定したい。
3/5】スリウォンRC 12周年。日本亭で開催決定。GS石平様、ヴィチャイ様を計画していたがお二方ともスケジュールの都合がつかず欠席。当日はチャーターメンバーのスピーチを計画。

【今後のゲストスピーカー】
3/12       JAXA長井博士(ロケット、人工衛星の専門家)
3/19       オイスカ春日様(ボランティアのお話)

■幹事報告 中島幹事
3/5】スリウォンRC12周年は日本亭にて。500バーツ程度のプレゼントを各自持参でプレゼント交換会を行いたい。18:30スタートです。

■政岡PE報告
3/1~3/3はプリラムでの自転車贈呈式だが、政岡PEはPETS(3/2~3/3)への出席のため、当日の贈呈式参加は出来ない。了承願いたい。
 
■ゲストスピーカー:杉原千弘様(山田Rtn、紹介)
(自己紹介)
杉原千弘様は「命のビザ」で著名な杉原 千畝外交官のお孫様。
(杉原 千畝氏の生い立ち)
190011日岐阜県八尾町に誕生。高校卒業後、医学部を受験するが不合格。理由は試験自体を受けなかった。杉原氏は英語の教師になりたいという思いがあったが、両親の勧めで医学部を受験させられた。医学部不合格、の結果、両親に勘当され、上京して早稲田大学に入学した。仕送りなしのバイト生活で生活は厳しかったとのこと。
(学生時代)
暗記能力に才能があり、大学の講義でも一切ノートは取らずともその講義内容を暗記していたというエピソードも。将来のことを考えている際に偶然大学の図書館にあった外務省入省募集の求人を目にして、「海外に行けて、しかもお金も頂ける」同職に希望を見つけ猛勉強を開始。一カ月間図書館に籠る生活。合格者は全国で14名、その1名が杉原氏であった。
(外務省職員)
当初スペイン語を学びたかった杉原氏だったが、日露戦争の背景もありロシアの専門家を増やしたい外務省の方針もありロシア語を学ぶことになり旧満州のハルピンへ派遣される。ハルピン学園にて3年間、ロシア語を学んだ。杉原氏の勉強法は辞書を半分に破き、暗記してはそのページを捨てて最終的には辞書一冊の単語を暗記したとのこと。この3年間の研修後、ロシア語を他社へ教えられるほど完璧にロシア語をマスターした。その卓越した語学力も評価され外交部にスカウトされ働き始める。
(外交部での活動)
ソ連と日本間の満州鉄道買収交渉プロジェクトを任される。当初ロシア側の提示額は日本の当時の国家予算の10%にあたるほど高額だったが、杉原氏は満州鉄道の価値を計るありとあらゆる情報、詳細を調査して交渉を重ね、最終的には当初の提示額の4分の1の価格で買収を成功させ、自身の評価を更に上げた。当時の満州は軍人が幅を利かせている状態であり杉原氏の目にはあまり良く映らなかった。そんな中、統治していた関東軍よりオファーが届くがそれを断り、満州を離れる決意を固めて辞職、そして帰国。日本で結婚をした。
(外務省復帰)
帰国後、再度外務省へ復帰した。復帰後に外務省はモスクワ大使館への事例を下したが杉原氏自身のVISAをロシアが認めなかった。以前の満州鉄道買収の際に要注意人物として登録されていたため。
外務省はその後、杉原氏をフィンランドのヘルシンキに赴任させ、その6か月後にリトアニアへの赴任が決まる。当時のリトアニアには、日本人も当然ながら日系企業もない未開の地。そんな国に日本政府が領事館を開設した理由は、日独伊、三国同盟前の国際情勢でソ連とドイツの同行を調査したかったためとのこと。
(リトアニア領事官時代)
職員にドイツ人将校を2名、そして敵国であるポーランド人将校も2名雇用した。ポーランドの情報を知りたかったため。諜報活動を行うにあたり杉原氏はポーランド人職員にいざというときのために日本国のパスポートも所持させていたとのこと。リトアニアをベースにポーランド、スウェーデン、ロンドンでも諜報活動を行った。
リトアニアはソ連の軍人が多く常に杉原氏は監視下に置かれていたが、街で見かける戦車、船の行先、車の轍などを見て軍がどの地域に向かったかなどを調査していた。
(ユダヤ難民)
戦時中、ポーランドより避難してきたユダヤ難民は1000人規模を超えるものであった。彼らは戦火を逃れるため日本でのトランジットVISAを欲しがった。どの国の大使館もユダヤ人へVISAをおろさなかった。これをみて杉原氏は日本政府にVISA発給の許可を要請したが政府は難民に対し、所持金、財産の証明と受け入れ先の証明を書面で説明できないものにはVISAは許可しない、といった内容。命辛々逃れてきたユダヤ難民の方々は当然ながら皆、その説明資料はなかった。
(「命のビザ」発給)
杉原氏はたったひとりで1日に300枚のビザを発給すると決断。当時コピーもなにもない時代に手書きで発給作業を続けるのは重労働だった。インクもなくなるほど毎日ビザ書類を書いた。杉原氏の奮闘を横目にしていた敵国ドイツ人の将校も最終的には杉原氏を手伝った。
のち、戦争が進み、リトアニアはソ連に併合され支配された。その結果リトアニアの日本大使館に退去命令が下された。退去後にベルギーへ赴任する予定だった杉原氏は赴任までのわずかな期間にホテルでも汽車に乗っているときでも常にVISA要請に来るユダヤ難民の方々に対しVISAの発給を行ったとのこと。
(ドイツへ)
日本政府よりドイツにて公使館になる辞令が下され、ドイツのケニスブルグへ赴任。当地では戦火が激しくなりルーマニアのブカレストへ避難。山荘に避難している際、戦火に巻き込まれたがその際身を挺して杉原氏の奥様をドイツ兵が守った。ドイツ兵は被弾して死去。そのドイツ兵が身に着けていた勲章バッジを杉原氏の奥様は生涯離さなかったとのこと。
(終戦から帰国)
終戦後、杉原氏は1年半の長い間、ソ連に拘束されて毎日尋問を受けた。ありとあらゆる質問を受け憔悴しきったとのこと。日本へ帰国後、外務省にポストはなく辞職をさせられた。ユダヤ難民へのVISA発給の責任も取らされた形となったが、杉原氏に後悔の念はなかった。
実は、杉原氏は外交官として日本は戦争に勝ち目は絶対にない、と以前から考えていて、ユダヤ人難民へのVISA発給は人道的なこともあるが、終戦後、復興の際にユダヤ人が協力をしてくれるかも、との思いもあったとのこと。
(晩年)
日本で通訳やロシア語の先生をしていたが、ある商社のロシア駐在員として最後の仕事につく。
フジテレビのドラマにて取り上げられた際、VISA発給をした方々に感謝され、彼らに人生幸せか?と問われた際、「あなたたちが幸せであれば、私の人生も幸せだ」と語った。

(杉原千弘様の活動)
MPO法人で「命のビザ」を運営。写真展や講演会を行っている。祖父の偉業を後世まで残すことは遺族の使命であると考える。賛同を頂ければ是非ご協力をお願いしたい。

■海南RC岡本会長スピーチ
和歌山県の海南市は紀州漆器、黒江塗が有名です。全国の「鈴木という姓」のルーツといわれる鈴木屋敷も有名でそのイベントにも参加している。
海南RCは来年で設立60周年。20年前に2640地区のガバナーを輩出した歴史のあるRC。しかしこの15年間で80名いた会員が30名となった。先進国ではロータリアンが減っているといわれているが、会員を増やす努力を今後続けていきたい。
アメリカ、カリフォルニア州のサニーベルRCとは姉妹クラブです。シンガポールでバナー交換をしたことがある。最近は交流がないが今後活発にしていきたい。

ニコニコBOX 塩谷会長、岡本会長

ラッキドロー 梅村Rtn



0 件のコメント: